ぷりんつの考え事

遊戯活動に関する人類史的・社会科学的分析

千日前ラウンドワンー人間における悪の研究

 はじめに

 こんにちは、ぷりんつです。今回は千日前ラウンドワンの事例について人類学的な考察を加えていきたいと思います。ちなみにこの本のタイトルに非常に大きなインスピレーションを与えた「悪魔の解剖ー人間における悪の研究(著:ルース・ナンダアンシェン)」については読んだことがありません。また人類学が何かについても全然知りません。ルース・ナンダアンシェンさん、人類学に携わるすべての皆さんにお詫びの言葉を述べたうえで本記事を執筆していこうと思います。

 

人間の狂気について

 これについては改めて述べる必要はないかもしれません。2度の世界大戦、、度重なる人種や民族を理由とした迫害・ジェノサイド、権力闘争、ホロモドールなど枚挙にいとまがありません。私たちは血に塗られた歴史の上を生き、そして新たな歴史を紡いでいるということを理解する必要があるでしょう。ではまず例として世界大戦を挙げ、人間はなぜ狂気に陥るのか考えてみます。

 この戦争は、人類史において限りなく大きな傷跡を残した戦いだと言えます。戦争人類の狂気がどのような事象をトリガーとして際限のないものとなっていくのか分析するのにはよい事例でしょう。

 

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一般に第1次世界大戦は1870年代の世界不況を機に強まる植民地主義の行き詰まりが、サラエボ事件による民族感情の突沸をトリガーに一気になだれこんでしまったとされています。また第2次世界大戦についても世界大恐慌を機にブロック経済を敷くことが可能だった国とそうでなかった国の対立の深まり、そしてそうでなかった国による武力を伴う問題解決の実践の結果だとされています。

 この事実を見るに、人は一度一つの対立軸を形成してしまうと今度はそれに突き動かされ、結果として凄惨な戦争を始めてしまいうるということです。対立軸については宗教、民族、経済、イデオロギーなど多様で、第1次世界大戦については一般に植民地主義の行き詰まりのほかにもスラブ民族ゲルマン民族の対立などが対立軸として上がるでしょうし、第2次世界大戦においてはこれは後世の後付け的評価ですが民主主義とファシズムの戦いとされるところもあります。

 

 では、千日前ラウンドワンにおいてはどうでしょうか

 

 元来人間は戦闘的であり、よって日本人も戦闘的な1面を内に秘めているといえるでしょう。しかし豊臣秀吉の刀狩を受け、日本の庶民層から様々な名目(方広寺の大仏建立など)によって武器が奪われます。日本において武器流通が厳しく取り締まられるのはこのあたりから来ているのではないでしょうか。また、時は過ぎ明治政府は廃刀令を出し、武士から刀を取り上げることで日本国内での国家による”力の独占”を完成させます。廃刀令に関しては強い抵抗などもありましたが、それが明治政府によって鎮圧されると、国民は生活における武器や武器の扱い方の知識の必要性を感じなくなり、日常生活から”戦い”が切り離されていきました。この動きを社会や文化の発展がバックアップしていったといえるでしょう。

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 しかし人間の性質というものは変えられるものではないのです。そこで娯楽の役割が重要視されます。娯楽というものは内なるストレスを解消し、また願望を満たしてくれるものとされます。そこで人々は内なる戦闘意欲を解消するために娯楽に興じるのです。例えばプ〇〇ラ、あのゲームは主に女子校生に人気です。ではなぜ、その層に人気なのでしょうか?それは女子校生たちの心の中にある闘争心を「顔面バトル」という形で発散させているからに違いありません。娯楽の歴史は古く、インダス文明モヘンジョダロ遺跡からもさいころが出土しており人類がいかに内なる闘争心を押さえつけるのに苦心してきてきたかが想像できます。

 

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 問題は、娯楽に手を出しても闘争心を押さえつけることができない場合です。この場合当事者には2つの解決方法が存在します。1つは娯楽以上の何かを追い求めるというもので、もう1つはそもそも闘争への衝動を抑えないというものです。それぞれ千日前ラウンドワンに当てはめると、中学生マリファナ連行事件と筐体液晶破壊事件に分岐します。そこに社会的ルールの介在する余地はありません

 まず、中学生マリファナ連行事件について。これはなんか怖いので記事として書くのはやめます。薬物、ダメ、ゼッタイ。

 そこで必然的に、筐体液晶破壊事件についての分析に重きを置くこととなります。これは当事者が「闘争への衝動を抑えない」という選択を採った結果だと解釈でき、人類の進歩とは逆行した動きであると言えます。台パン、ダメ、ゼッタイ。

 ではなぜこのような行動をとるに至ったのか。反知性主義の考え方を当てはめるとうまく説明できるでしょう。反知性主義とは、知的権威やエリートに懐疑的な見方を示す考えで、民主主義を守るうえで必要な考え方であるとされます。

 私は、これに倣って筐体液晶破壊事件の根底にある考え方を反進化主義と呼びます。そしてこれをこの世の中を人間の世の中と定義したうえで、それに懐疑的な見方を示し、あえて人間の進歩の歴史ー闘争衝動との闘いの歴史ーに反する行動をとることで「この世の中は人間だけのものじゃない!」などとアピールする、知行合一の考え方であると定義します。そうすると、筐体液晶破壊事件の構図が一気に明らかになるのではないでしょうか。これ以上はあえて記述をしません。

 続いて、豊臣秀吉の刀狩の影響及び明治政府の廃刀令の影響と筐体液晶破壊事件の衝撃について考察します。この2つは国家の力の独占に大きな力を果たしたことや、戦いの非日常化をより進めたということは前述のとおりです。確かに今、日本には明確に武器と呼べるものは流通が厳しく取り締まられています。そしてこの事件の当事者は前述の通り反進化主義であり、闘争を求めていたと言えるでしょう。つまり、日本の当局の歴史的な対応はここにきて大きく効果を発揮したのです。しかし、人間には元来2つの”””””拳”””””が備わっているということを当局は失念していたのではないでしょうか。この事件の歴史的意義は、国内における闘争を国家の意思のみによって排除することは不可能であることをはっきりと示したというところにあります。私たちは進化の途上にありますし、これからも闘争を抑える方向に向けて進化を続けるでしょう。しかしその道のりは勝手に何か(この場合は国家)が進めてくれるといったものではなく、私たちの不断の努力によってなし得られるものです。

戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない(ユネスコ憲章全文より)

話はそれましたが、”””””拳”””””の力という視点からみた筐体液晶破壊事件についてもざっと触れてみた次第です。

おわりに

 深夜のノリで書いたので最後のほうグダってしまってごめんなさい。僕のやる気があってかつこの記事を真剣に受け取る人間レート1.08が騒ぎ出さなければ続編を書きます。多分書きません。