ぷりんつの考え事

遊戯活動に関する人類史的・社会科学的分析

世界の歴史と太鼓の達人

はじめに

 最近音ゲーに飽きてきて新しい暇つぶしをこの場に求めています、ぷりんつです。さて今回の記事の趣旨は、太鼓の達人のプレイヤー、その中でもドンガイジと呼ばれる人たちの行動について脳科学的、世界史的な観点から解説を加えようとするものです。彼らの行動は多岐に亘り、それらすべてを一つの記事としてまとめることは不可能だと思うので多分この記事は続編が出ます。

 

 ちなみに僕が太鼓の達人に入れたお金は1000円に満たないでしょう。科学的な内容についての記述にも不勉強を感じさせる記述が多いことかと存じます。また太鼓の達人メインの音ゲーマーとの関わりは基本的に無いので、この記事はインターネットの情報にのみ準拠して執筆された偏見と悪意に満ちた記事であるということをご理解くださった上で読み進めていただけると嬉しいです。

 

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”ドンガイジ”の投擲行為

 「ドンガイジ」とは、動物界脊索動物門哺乳綱真猿亞目ヒト科ヒト属ドンガイジのことであり、基本的に我々人とは違う種の生物とされる。またすでに絶滅しているとされる先史時代の人類の1種、馬鹿洞人の末裔であるとの説も囁かれています。

 

 さて、ドンガイジについての基礎知識を大方述べたところで本題に入ろうと思います、「投擲行為」についてですね。太鼓の達人は名前の通り、太鼓のような筐体をバチでぶっ叩いて遊ぶゲームです(適当)。

 ここで皆さんに質問をします。何か強いストレスを感じたときに、「何かモノにその気分をぶつける」という経験はありませんか?次にもう1つ質問です。本来そのストレスを発散するためにやるはずのゲームで逆に新しいストレスをためてしまった経験はありませんか?どちらも僕はありますし、大体の人は経験している事象なのではないでしょうか。

 

 次に、お話しするのは音楽ゲームによる脳への影響についてです。音ゲーをプレイすると前頭葉に刺激がなされ、活性化するということは某テレビ番組でも言われていたので周知の事実となっているでしょう。確かに前頭葉は運動機能や思考を司る脳の部位であり、そこを活性化させることはとてもいいことです。

 しかし問題はそこにあります。一般に音楽ゲームメインのプレイヤーは1日あたりにそこそこの金額を筐体に投入されることが知られており、前頭葉の過度な活性化が懸念されるところであります。なぜでしょう。それは前頭葉は運動機能や運動のほかにも、感情、理性などをつかさどっている脳の部位だからです。一般的にここに障害が起こり、これらの機能に異常が生じると無気力などの形でさまざまな症状が出ることが知られています。では、それを過度に活性化させるとどうなるでしょう。一般的なヒトの場合、その思考は研ぎ澄まされ、感情・理性のはたらきも両方がより一層強まるでしょう。

 

 ドンガイジは私たち人類と非常に脳のつくりが似通っていることで知られており、まず話したストレスによる衝動も確実に経験しているとみて間違いないでしょう。

 ここで疑問となるのはドンガイジとヒトの脳のつくりの違いについてです。これはまだ解明されていない謎ですが、多くの学者は「ドンガイジの前頭葉は理性を司らない」としています。つまり、現状のドンガイジたちによる奇行(今回は投擲行動に話を絞りますが)は、理性が司られないまま太鼓の達人のプレイによる前頭葉の活性化が行われてしまっていたということによるものだと考えるのが妥当でしょう。

 

 ちなみにこの記事の筆者は文系であり、この記事について科学的信頼性を一切保証いたしません。

 

 ではここで、本記事の主旨であるドンガイジの投擲行為に関する考察を行いたいと思います。しかしその前に、人類史的に見る投擲の歴史について一度振り返ってみましょう。

投擲について

 人類の起源は、木の上から追い出されてしまった種類の弱いサルだったと考えられています。そこから祖先たちは直立二足歩行を始め、その結果生じた身体の変化による必要に応じて脳を発達させてきました。また我々の祖先は直立二足歩行によって空いた”手”と発達した脳でもって道具を作り、使用することを考案しました。そこから、人類の時代は始まったのです。

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皆さんも小学校で石器や弓矢などについては教わったと思いますが、投石器についてはあまり触れていないのではないですか?そこで投石の歴史を示すために1枚の絵画を貼ります(今回画像多くてすいません...)。

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皆さんご存知の通り、ペリシテ人の兵士ゴリアテイスラエル人のダビデの対決の図です。この絵画の詳細については省略しますが、この絵画から読み取れるのは手前の人物(ダビデ)が投石器を手にゴリアテへ立ち向かっているということでしょう。この絵画は3000年ほど前の戦いを描いており、その時期から投石器における投石に戦争における有用性は評価されてきたと考えることが出来ます。

 さて、時は急に移ろいレ・ミゼラブルの時代、つまり1832年の六月革命まで飛びます。六月革命で蜂起した群衆たちは最終的に鎮圧されますが、群衆たちは道にバリケードを築き、包囲を狭めるフランス兵たちに対して頑強な抵抗を見せていました。ところで、当時のパリの道は石畳によって舗装されていました。そこで兵力差において圧倒的に劣る民衆たちはどうしたか。その石を剥がし、兵士に投げつけて抵抗をしたのです。また、投石はパレスチナインティファーダなどにも見られ、一種の抵抗運動のシンボルのようなものとなっていると言えるでしょう。

 

 以上のように投石はもはや戦場において有用性を失ったといっていいでしょう。しかし、いまだ投擲のスキルは戦場において大きな役割を占めると言えます。なぜなら手りゅう弾はまだ軍隊において最も主要な兵器として健在であり、世界中の紛争地域で現在も使用されているからです。

 手りゅう弾の歴史は古く、8世紀の東ローマ帝国で使われていたという説もあります。中国では唐の時代の文献において火薬が発見されていたとされており、身近に知られている昔の中国の手りゅう弾の例では元寇における元軍のてつはうなどが挙げられるでしょう。人類は直立二足歩行によって投擲能力が非常に高い種類の動物となっており、このような兵器が開発されるのも当然のことなのかもしれません。

 また、現在の運動オリンピックにおいてやり投げや円盤投げが種目として採用されており、また野球などの球を投げる必要のある球技が世界的な隆盛を見せていることからもヒトは”投げたい”生き物なのかもしれないという思いがよぎります。雪合戦も楽しいですよね。

 

 ところでここまで偉そうに人類の投擲について投石を中心にまとめましたが、実は投石というものは猿でも出来るし、やっていることなのです。実際、つい最近にも猿の投石による死亡例があるようで、投石というものの怖さを改めて感じさせられる次第ですね。

 ドンガイジたちはバチを太鼓の達人の筐体に投げつけていて、その姿には非常に原始的なものが重なるでしょう。よって、ドンガイジはサルがヒトへ進化していく時に分岐していった種であるということが類推できます。

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 また、別の一説によればヒトへの進化の過程にドンガイジがおり、ドンガイジは進化に取り残された存在であるということになりますが、この説はマトモな社会生活を送っている皆さんに対しての侮辱だと考えたので本記事では採用をしないことにしました。ダーウィンの進化論を「人が猿から進化したわけがないw」と嗤った人々の気持ちが今分かったように思います。

 本題に戻ります。理性を持たないドンガイジによるバチの投擲行為ですね。これに関しては「投石は抵抗運動の象徴である」という結論と投擲はサルでも出来るという事実を総合的に勘案したときおのずと結論は見えるでしょう。

 太鼓の達人はゲームである以上”結果”が付いてきます。ではその結果が納得のいかないものだった場合どうでしょう。一般的なヒトはこの場合、「次があるさ」「少し調子悪いな」などと自分を落ち着かせる方向へ行くでしょう。

 では、ドンガイジの場合どうでしょう。彼らに理性がないとされているのは前述のとおりです。つまり、感情を爆発させます。太鼓の達人がバチをもって太鼓の面をぶん殴るゲームだということも前述のとおりです。要するに結果が出たとき、ドンガイジの手にはバチが握られているということになります。

 さて、投石は抵抗運動の象徴です。ならばバチを投げることでゲームの結果に”””抵抗”””出来ると考えるのはごく自然のことではないでしょうか。しかも彼らには「理性のブレーキ」がありません。

 以上、ドンガイジのバチの投擲行為に関する僕の説を読んでいただきありがとうございました。

 

 さて、現在ドンガイジにも人権が認められており、何か攻撃を仕掛けた場合当然動物愛護法ではなく人を対象にした法律によって罰せられます。悪質な行為を見かけたら店員さんにちゃんと知らせましょう、ツイッターに晒すのはもっての外です。

 ゲーセンはみんなのものです。筐体は大切に(筆者自身にも言い聞かせながら)。

 

終わりに

 この記事では面白かったのでドンガイジに話を絞って書きましたが、台パンはやめましょうね、ホントに。僕もたまにしちゃいますけど後悔しますよ、割と。

 最後に、このゴミみたいな記事に3500文字以上に渡ってお付き合いいただいた皆さんには感謝してもしきれません。ありがとうございました。